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「自民党幹事長を倒した男」の告白
「自民党幹事長相手の選挙だったので本当に厳しい選挙戦でしたが、市民の皆さんの力を結集しての勝利でした」
10月31日に行われた衆院選。神奈川13区で大金星を挙げた太栄志(立憲民主党)は11月10日の初登院でこう語った。相手は自民党幹事長の甘利明だった。
『令和の西郷どん』を自称する太は鹿児島の離島出身。長島昭久(現自民党衆院議員)の秘書を経て、2015年12月に当時長島が所属していた民主党で神奈川13区の候補者に選ばれた。落下傘だった。
太栄志議員(筆者撮影)
最初の選挙はダブルスコアでの惨敗に終わる。
ところが太は気落ちすることなく、「そこから活動はより加速した」という。太の地力を培ったのは徹底したドブ板選挙だ。
「これまで10万軒の戸別訪問をしてきました。落下傘で来た以上、それをやるしかないですから。それから日々の街頭演説と月に1回のタウンミーティング。この3本立てです」
まさに選挙の王道とも言えるが、実際に新人でこれを徹底できる候補者は珍しい。太を指導したのは田中角栄の秘書だった朝賀昭だ。朝賀は「長島(昭久)から預けられたんだ」と明かす。
地道な努力は確実に実を結んでいった。太は選挙戦をこう振り返る。
「夏頃には手応えを感じていました。それでも普通は自民党幹事長相手に勝てるはずがない。活動してきたことがベースにあって、それに相手の敵失や選挙期間での勢いで票が一気に動いた。少しでも活動が緩んでいたら負けていたと思います」
選挙の王道を貫き、強固な地盤を崩した太。だが、他にはもっと長く過酷な戦いをしてきた人もいる。
保守地盤を崩した地道なドブ板選挙
藤岡隆雄(立憲民主党)は栃木4区で活動を始めて9年2ヶ月。4度目の挑戦にして比例復活ながら初当選を果たした。
愛知県生まれの藤岡は大阪大学基礎工学部に進学。
「20歳の頃、金融危機で山一證券破綻のニュースを目の当たりにし、『沈みゆく日本を良くしたい』という思いが生まれて政治家を志しました」
就職先は金融庁だった。「ずっと選挙に出たかったが、なかなかチャンスがなかった」という藤岡だが、みんなの党を作った渡辺喜美との縁で政界に入る。
「渡辺喜美さんの政策秘書を1年9ヶ月務める中で、一緒に栃木の県南地域を出入りしているうちに地縁ができて2012年に栃木4区から出ることになりました」
無謀な落下傘…「8万軒回りました」
しかし、栃木4区には1996年の初当選以来連続で当選を続けている佐藤勉が強い地盤を築いていた。佐藤が比例復活に甘んじたのは政権交代をした2009年総選挙の一度だけである。
そこでの落下傘としての挑戦は、周囲からは無謀と受け止められた。
藤岡隆雄議員(筆者撮影)
最初の選挙での得票は4万9千票。佐藤には実に6万票もの差をつけられての惨敗だった。みんなの党はその後、解党。2014年の総選挙は民主党に入党して臨んだ。
前回よりも1万3千票積み増したが、依然として佐藤との差は5万2千票もの差があった。ここから藤岡は選挙活動の方針を大きく転換させる。
「戸別訪問を徹底することにしました。それまでは駅立ちや支援者周りを中心にやっていましたが、2回負けたことで考えを改めたんです。とにかく一軒一軒回るしかない。2016年から8万軒を回りました」
戸別訪問では地図を片手に自民党のポスターが貼っていようが関係なく一軒一軒回った。その甲斐もあって17年の総選挙では得票を1万4千票増やし、今回は一気に3万票を増やした。保守地盤の強い北関東にあって、惜敗率95.6%は立憲民主党の北関東ブロックで1位だった。
「政党が変わる」のは本当にきつい
「コロナ禍で足が止まってしまったのが残念でした。小選挙区で勝てなかったのは戸別訪問があと3万軒足りなかったのが原因だと思ってます」
藤岡が最も苦労した点は毎回所属政党が変わってしまうことだった。
「政党が変わるのが本当にきつい。みんなの党は解党まで付き合った。民進党では党の決定に従い希望の党で立候補した。その党もなくなり、立憲民主党に所属することになった。私から政党を移ったことはないのに渡り鳥のように思われてしまうのは辛い」
それでも頑張れたのは、地道なドブ板の活動が身を結んだからだと語る。
「なぜ活動を続けられたのかというと、やればやるほど支援者の皆さんを巻き込んで票を増やしていくからなんです。そのことに感謝して、さらに戸別訪問をしていくと不思議なほどその地域が好きになる。一生懸命やっていると応援してくれる人も増えてくる。本気度を示せば示すほど有権者はそれを見ていてくれているのだと感じました」
初登院では開門前から多くの新人議員が並んだ(筆者撮影)
今回も事前の情勢調査ではかなり厳しい結果が出ていた。そこから盛り返したのは藤岡の気迫が伝わったからだろう。
「今回は不退転の決意でした。ただ選挙に出たいだけの人だと思われたら終わりです。これまで以上の本気度を示したことで、支援者の方からも熱量が出てきて事務所も活発化した。それが私を押し上げてくれました」
藤岡はさらなる地元密着を図るべく、議員宿舎には入らずに小山市にある自宅から通うという。
7度目の直接対決で初めての勝利をつかんだ男
実に7度目の挑戦で初勝利を手にした男もいる。無所属の仁木博文だ。
2003年に民主党から徳島3区で初挑戦し自民党の後藤田正純に敗れると、希望の党として戦った前回まで同じ相手に6連敗を喫した。当選は政権交代した2009年に比例復活した1回のみである。
「今回は背水の陣で、負けたら政界引退すると決めていました。覚悟の末、無所属で挑むことを決断しました」
無所属で戦うことには親族からも反対されたという。
初めての勝利を挙げるまで18年。どうして7回も挑戦できたのか。その理由は相手が後藤田だったのが大きいと語る。
「2011年の東日本大震災の直後です。多くの人が悲しい思いをしている時に、彼は自分の性欲にかまけて議員宿舎に女性を連れ込んで情事にふけていた。それがフライデーに報じられたんです。私は被災地に11回行きました。
そこで目の当たりにした現地の悲惨な光景は今でもはっきり覚えています。それだけに、『そういう時にあんなことをしていた人は許せない』と強く思いました。妻には『あんなやつに負けたら俺は政治家辞めたるわ』と言っていたほどです」
ところが、民主党が惨敗して野党に転落した2012年の選挙では再び落選の憂き目に遭う。その後、3つあった徳島の選挙区が一つ減り、徳島3区は消滅。仁木の地元である阿南市は徳島1区に入ることになった。しかし、徳島1区には菅直人政権で官房長官を務めた仙谷由人がいた。
「仙谷さんも1区で出るという意思を示していたので、私は出ないつもりでいました。そんなある時、仙谷さんと二人で会合の場を持つことになった。すると仙谷さんから開口一番、『仁木君が出てくれないか』と言われて、出ることになった。これには妻からも『話が違う』と怒られ、離婚の危機になりました」
選挙戦で街頭演説をする仁木(Facebookより)
同じく徳島1区に移ってきた後藤田と5回目の対決だったが、2万票以上の差をつけられ落選。希望の党として出馬した2017年選挙もほとんど変わらない得票で落選した。
そこからは無所属としての挑戦が始まった。
「もう7回目の選挙なんで党で戦うのはやめようと思った。これまでは『民主党』という色がついているだけで徳島では政策も何も聞いてくれなかった。それが無所属になったところ、みんな話を聞いてくれるようになった。支援の輪が大きく広がりました」
政治家としてすべてを賭けた戦い
活動に手応えを感じ始める中、追い風が吹く。2019年の県知事選では後藤田と徳島県連が別の候補者を推す分裂選挙となるなど、両者の溝は埋まらないところまで広がったのだ。徳島県連は後藤田を公認しないよう党本部に求める異例の事態となる。
「党本部は『現職優先』の原則に従い後藤田に公認を出したが、県連としては自主投票にした。今回はほとんどの県議が動かなかった」(自民党県議の一人)
医師である仁木にとって新型コロナも格好のアピールにつながった。
「ワクチン接種は黙々と打っていました。職域接種も入れて5千人くらい打ちました。それから深夜に及ぶコロナの電話相談も行いました」
ほとんどの小選挙区で自民党公認候補には推薦を出している公明党も、後藤田には推薦を出さずに自主投票とした。
「無所属なので政党の力で当選するわけではない。自分自身、政治家としての全てを賭けた戦いという意気込みでした」
仁木の意気込みは各党の支持層にも広く届いた。
野党が強くなるためのヒントがある
朝日新聞の出口調査によると、仁木は自民党支持層の33%、公明党支持層の49%、無党派層の61%を獲得。7度目の対決にして初めての勝利をつかんだ。
それも2万2千票もの差をつけての圧勝だった。
彼らに共通するのは党や風に頼ることなく、地道な地元活動と強い「本気度」を示すことで支持を広げたことだ。
野党が強くなるためのヒントがこの辺りにあるように思えてならない。

































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